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変わりゆく信長像

変わりゆく信長像

 天下統一を進めた織田信長。大きな野望を抱き、「天下人」や「革新者」、マントなど南蛮物を好む「
傾奇者かぶきもの
」などと描かれることが多いが、近年の研究で、これまでと異なる信長像が明らかになってきている。

変わりゆく信長像
宣教師が描いたとされる織田信長の肖像画の写真=三宝寺蔵

 信長は1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り、67年に岐阜城に移ると「天下布武」の印を用いるように。翌年には足利義昭を将軍に立てて京都に入り、義昭を「
傀儡かいらい
」として操った後、京都から追放し、15代にわたる室町幕府を滅亡させた。

 71年に比叡山延暦寺を焼き打ちし、石山本願寺を約10年に及ぶ戦いの末に退けた。安土の城下町では、同業組合である「座」の構成員以外の商工業者にも自由な商売を認める「楽市楽座」を設けた。その後、腹心の明智光秀に裏切られ、最期は燃え盛る本能寺で生涯を閉じた。

 こうした出来事を通じて、▽天下布武で全国統一の意志を知らしめた▽旧勢力や宗教的な権威を忌み嫌っていた▽経済の発展に力を注いだ――など、「野心家」としての信長像が形づくられていったとみられる。

 これに対し、「本当に全国統一を目指していたのだろうか」と一石を投じるのは、「織田信長〈天下人〉の実像」の著者で、東京大史料
編纂へんさん
所の金子
ひらく
教授だ。

 金子教授によると、信長が「天下布武」の印を使い始めた頃、「天下」は主に「京都を中心とする畿内周辺」を指し、史料からは侵略による領地拡大、いわゆる「全国」統一の野望は読み取れないという。また、天皇や幕府を重んじ、将軍の「代行者」として秩序を維持することを自身の役目と捉えていたと指摘する。

 信長を研究する県立安土城考古博物館(近江八幡市)の高木
叙子のぶこ
主幹も、「『天下布武』の印は、信長と敵対関係にない武将に宛てた文書にも使われている」と話す。宣戦布告の意図はなかったようだ。延暦寺の焼き打ちも、信長に敵対する浅井・朝倉軍をかくまったことへの報復だと裏付ける文書も見つかっており、宗教勢力を排除する目的はなかったという。

 「信長は、真面目すぎるほど真面目」と金子教授。すべては秩序を維持する「天下
静謐せいひつ
」のためで、規律を乱す勢力を排除し続けた結果、全国統一のために侵略を繰り返していたように解釈されたのでは、と推し量る。

 高木主幹も「数少ない史料を仮説を立てて読み解いていった結果、全国統一というわかりやすいストーリーで解釈されたのでは」とみる。近年は参照できる史料が格段に増えてきているといい、「一般にはなかなか浸透していないけど、研究者の中では信長像が変わりつつある」と明かす。

 歴史上の偉人の中でも、大胆で痛快な人物像で屈指の人気を誇り、小説やドラマだけでなく、ゲームにもなった信長。近年の研究を通じて浮かび上がってきたのが、本来の姿なのだろうか。戦国の風雲児は、令和の世でもロマンをかき立ててくれる。

(香山優真)

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[紹介元] YOMIURI ONLINE 変わりゆく信長像