戦国時代に長浜市東部の
一帯にあった小谷城を拠点にした
家の2代目・久政が、城を囲む石垣の工事について触れた書状を長浜城歴史博物館などが再発見した。昭和初期に確認されていたが、その後、約100年間にわたって所在不明となっていた。同館は「浅井氏や小谷城の今後の研究に生かしたい」としている。(清家俊生)
100年所在不明 浅井久政書状

市によると、書状は縦13・1センチ、横36・5センチ。一部切断されており、宛名の冒頭が判読できなかった。書状が出された年号はないが、5月7日という日付と久政の花押が記されている。久政の息子で当時の浅井家当主・長政が翌8日に小谷城で石垣に使う石を運ぶ「石引き」を行うため、家臣に手伝いをするよう命じたという内容で、長政自身が参加して指揮すると書かれていた。
差出人は「下野守久政」。久政が1560年に長政に当主を譲った後に名乗っていたもので、61~73年に出されたものと推測されるという。
書状は、1927年(昭和2年)発刊の「東浅井郡志」で浅井家などについて触れた文書の1通として紹介されていた。ただ、書状の「石」の文字を「衆」と誤読して取り上げられていたため、石垣に関する史料として注目する研究者もおらず、書状自体も所在がわからなくなっていた。
昨年9月、市内の旧商家で所蔵品を調査していた同館と市曳山博物館の学芸員が書状を見つけた。内容を調べたところ、石垣工事についてのものと判明した。
長浜城歴史博物館と市曳山博物館は21日、市役所で記者会見を開いて、書状について説明。市曳山博物館の太田浩司館長は「小谷城の修築に関する文書はこれまで確認されておらず、城が徐々に増強されていく過程を実証できる史料だ」とした。

太田館長は「長政が1570年4月に織田信長から離反した後、信長の小谷城攻めに備えた可能性がある」として、書状の作成時期は同年ではないかと推測。「実際、信長が6月に城を一時包囲したが堅固で退却し、その後、姉川合戦に至った」と指摘した。
再発見を受け、県立大の中井均・名誉教授(城郭史)は「戦国時代の石垣に関する文書はほとんど残されていない。小谷城での石垣構築を具体的に記しており、極めて重要な史料と言える」とコメントした。
書状は、24日から5月11日まで小谷城戦国歴史資料館(小谷郡上町)で一般公開する。28日と5月7日は休館。問い合わせは長浜城歴史博物館(0749・63・4611)。